エコノミークラス症候群(急性肺塞栓症)について。
2011.11.30 Wednesday
ベルギーにいます。
生きています。
元気です。
今日は到着5日目。
2011年4月8日、パリ。
予期せぬ出来事が起こりました。
エコノミークラス症候群(急性肺塞栓症)を発症。
それは、到着の4日目の夜、パリ初日のこと。
命の恩人になるエドワード、エルベとお酒を飲んでいたときでした。
|お話を始める前に、ひとつだけ。
この疾患を予防するために、僕がドクターに言われていることです。
- 長時間フライトでは、お酒はほどほどに。
- 水分をたっぷりと補給してください。
- そして、必ず歩くこと。血流をよくすることが大切です。
血液検査で血のさらさら具合を知っておくことをおすすめします。
病院で10分くらいで終わると思います。
この病気は突然起こります。
症状としては、血栓ができた部分の激痛、
そして呼吸ができなくなります。
仕組みはこうです。
長時間動かないことで、下半身に血の塊ができます。
それが静脈を通って、肺で詰まります。
さらに心臓に到達すると手の施しようがないそうです。
本当に怖いことです。
名前はエコノミーですが、ビジネスクラスでも起こります。
実際、サッカー・ワールドカップ前に高原選手がかかりました。
座席で長時間、寝続けたそうです。
また、長時間の手術や運転などでも起こります。
つまり、動かないことが原因です。
日本だけでも年間4000例ほどあるそうです。
→ エコノミークラス症候群
ただし、多くの場合は、動くことで防ぐことができます。
この病気について、今のところ航空会社は一切アナウンスしていません。
是非、改善してほしいものです。
| パリの夜に。
発症2時間前、とてもきれいな夕日でした。
夜9時頃でした。
始めは、肺の左側の一部分だけに違和感を覚えました。
何かに突かれているような感じです。
気のせいかと思っていたのですが、
時間とともにその間隔が短くなり、
無視できないほどの痛みになりました。
左手で思いきり肺を押さえつけましたが、
痛みはますますひどくなっていきます。
それから苦しくて苦しくて、何も考えられなくなりました。
覚えているのは、ただ苦しい。
ただ不思議なことに、自分が死ぬとは一切思いませんでした。
この時点では、疾患について、
知らなかったことが良かったのかもしれません。
そしてほとんど息ができなくなりました。
顔色は真っ白だったそうです。
エルベが電話をしてくれて、救急隊が駆けつけてくれました。
脈をとり、血圧をはかり始めました。
その間も呼吸ができませんでした。
そこへ通訳してくれたアランさんと京子さんが到着してくれました。
アランさんは映画プロデューサー、奥さんの京子さんは在仏30年。
当日は映画の完成試写会だったそうです。
救急隊から質問攻め。
「家族は?」
「この症状はいつからか?」
「パリにきたのはいつか?」
他にもいろいろ聞かれましたが、あとは覚えていません。
実際、呼吸困難だったのは20分程度でした。
僕としてはずっとずっと、そう2時間くらい経っている感じでした。
それから呼吸が戻ってきました。
そして、救急車へ。
実はそこは建物の8階。
ドクターから指示で、僕は椅子に座ったまま、
救急隊は椅子の両袖を持ち上げ運んでくれました。
申し訳なさと人名に携わる人はすごいなというで気持ちで一杯でした。
いまはダイエットしています。
それから病院へ搬送されます。
| 長い長い夜の始まり。
まず運ばれたのが、12区付近の拠点総合病院、
サン・アントワーヌ・ホスピタル。
ここでは二つの事実を知ることになります。
ひとつはフランスの病院について、
もうひとつは日本の保険会社についてです。
| フランスの病院
日付が変わり9日午前1:30、ひたすら待つ。
運が悪いことに、その日は金曜日。
そしてここはパリ。
私たちの常識では考えられない状況でした。
日本の病院は本当にすばらしいと思います。
TTPに参加しても構わないのですが、
現在のように、皆が良い医療を受けられるように、
努力してほしいと思います。
救急なのですぐ見てもらえると考えていたのが、
大きな勘違いでした。
待合室でベッドに横たわったまま3時間。
そこには10人くらいいたでしょうか。
その間、すごく酒臭い部屋で、
酔っ払いのおじさんがおしっこをもらしていました。
そう、ここはフランス。
|保険会社のこと。
そして、追い討ちをかけることが起こります。
成田空港で「損保ジャパン」の保険に入っていたので、
携帯電話で連絡をしました。
以前テレビコマーシャルで「まごころ」か何かといっていましたが、
うそを言うのは本当に止めてください。
電話での応対は、まったく事務的で心のない言葉ばかり。
ロンドンから電話してきた担当者は本当にひどくて、
こちらの状況をまったく把握しようともせず、
いきなり条件の話やらナニヤラでした。
本当にひどかったです。
彼女の対応があまりにひどいので、
結局は担当をかえてもらうことにしました。
そして、集中治療室に入院してから数日後、
現地の協力会社のスタッフが来てくれました。
彼女は元看護婦さんでフランス在住。
とても安心できました。
|続く長い夜、そして朝。
3時間後、ドクターに見てもらい、
そのままCT検査にいくことになりました。
再び待つこと、3時間。
時間は午前4時くらいだったと思います。
今度は検査室の前で、ずっと横になっていました。
その間もエドワードがずっとそばにいてくれました。
とても安心しました。
そのときは、全く知りませんでした。
起き上がると血栓が動いて死ぬかもしれないということは、
入院二日目に知ることになります。
二回もトイレに行ってしまいました。
結局この間、医師や看護婦は、
一度も様子を見に来ることはありませんでした。
日本とはだいぶ違うように思います。
検査が終わり、朝8時頃だったでしょうか。
心臓専門病院へ移ることが決まりました。
また3時間くらい待って、救急車に乗りました。
救急車を降りるとき、搬送代金を現金で支払いしました。
フランスなので、健康保険がなく、仕方のないことですが、
なんだか落ち込みました。
|動くな。
移動翌日10日昼頃の様子、集中治療室にいる間、つけっぱなし。
集中治療室に入院することになりました。
本当に危なかったと知ったいうのは、
入院して2日後のことでした。
エドワードの友人、ジャン=マリー・セルバン先生がきてくださり、
日本語で病気のことを教えてくれました。
そして、動くなと。
|フランス語はわかりません。
初日の病院食、いくらなんでもこれは不味すぎて食べられません。
この病院はまだ良いほうだという話でした。
フランスの現実とイメージのギャップが激しすぎます。
入院初日、部屋は二人。
ルームメイトも死にかけた一人。
日本の仲間に電話すると、
「生きてて良かったね」とのこと。
電話を枕元に置いておくので、
いつでも電話していいといってくれました。
本当に心強かった。
そして、トイレ問題。
ベッドの上でどうぞとのこと。
大きいのも小さいのも。
仕切りはありません。
看護婦も気にかける様子も無く、
結局、生まれて初めて便秘になりました。
シーツ交換のとき、
「サロンジェ(横たわる)」が分からず、
そのまま起きていると、
初老の看護婦は怒り出す始末。
実は片言の英語ができたのに、
なかなか単語が出てこなかった様子。
怒らないでください。
|再び激痛
心電図。日本製。ひと安心。
初日深夜、
腰が悪かったこともあり、
ずっと横になっていたので背中に激痛が走りました。
背中に針金を入れられているような痛み。
痛みで心拍数があがり、心電図が警告音を鳴らしていました。
ドラマや映画でよく聞く音です。
薬をのんでも効かず、
鎮静剤を点滴してくれました。
フランス語で質問されても、何もわからない。
あの日の夜のことは今でも忘れられません。
|勉強。
そんなことがあり、
エドワードに辞書を買ってきてもらいました。
とてつもなく暇なので、
一日8時間勉強していました。
帰国後、放送大学のフランス語入門IとIIの単位をとりました。
不思議なことに、2月の時点で申し込みしていました。
最近は少しだけ聞きとれるようになってきました。
|悪いことばかりでなく。
一般病棟に移りました。もう安心。
入院中、毎日、血を抜かれていました。
採決してくれる人が女優のようにきれいな人。
「レスピレー(呼吸して)」といわれた瞬間に、
ぷすっと注射を刺されていました。
実は注射が大嫌いなのです。
|今年1月。
命を救ってくれたエドワードとエルベは、
とても寒い大江戸骨董市で出会いました。
たまたまブースを見て興味を持ち、
それ以来、パリで部屋を貸してくれるということになりました。
|そして、もうひとつの話。
退院した日の病院。
一昨日のこと、
エルベが教えてくれました。
以前、同じ症状を発症した人がいました。
残念ながら彼は、エドワードとエルベの目の前で、
とても若くして亡くなっていました。
即死でした。
エルベは僕の症状を見て、同じことが起こっているとわかり、
そしてすぐに救急車を呼んでくれました。
そして、すぐ救急隊がかけつけて、
椅子に座ったまま動かなかったので、
血栓が肺でとまった。
今になり、数多くの偶然が重なっていたことに本当に驚かされます。
幸運でした。
| あれから7ヶ月。
最初に運ばれた病院。部屋から徒歩2分。
幸いにも元気です。
帰国してから血液検査を受けました。
残念ながら、僕の場合、血栓ができやすい血液だそう。
プロテインCという血液の物質が、一般の半分しかないらしいです。
本当はいつも少し怖いです。
再発すると生存確立が下がるそうです。
特にヨーロッパへのフライト中やフライト後は、
実際には何も無いのですが、
ときどき肺が痛くなるような錯覚があります。
あれは、本当に苦しかった。
|感謝。
こうして元気に仕事ができ、暮らせているのは、
僕のまわりにいてくれる、みんながいるからです。
そして起こったすべてのこと、すべての人に、
ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
経験者として、生き残った者として、
この疾患の予防について、少しでもお役に立てればうれしく思います。
相澤拓也
ブリュッセルにて。
1800年代頃・マヌカン
生きています。
元気です。
今日は到着5日目。
2011年4月8日、パリ。
予期せぬ出来事が起こりました。
エコノミークラス症候群(急性肺塞栓症)を発症。
それは、到着の4日目の夜、パリ初日のこと。
命の恩人になるエドワード、エルベとお酒を飲んでいたときでした。
|お話を始める前に、ひとつだけ。
この疾患を予防するために、僕がドクターに言われていることです。
- 長時間フライトでは、お酒はほどほどに。
- 水分をたっぷりと補給してください。
- そして、必ず歩くこと。血流をよくすることが大切です。
血液検査で血のさらさら具合を知っておくことをおすすめします。
病院で10分くらいで終わると思います。
この病気は突然起こります。
症状としては、血栓ができた部分の激痛、
そして呼吸ができなくなります。
仕組みはこうです。
長時間動かないことで、下半身に血の塊ができます。
それが静脈を通って、肺で詰まります。
さらに心臓に到達すると手の施しようがないそうです。
本当に怖いことです。
名前はエコノミーですが、ビジネスクラスでも起こります。
実際、サッカー・ワールドカップ前に高原選手がかかりました。
座席で長時間、寝続けたそうです。
また、長時間の手術や運転などでも起こります。
つまり、動かないことが原因です。
日本だけでも年間4000例ほどあるそうです。
→ エコノミークラス症候群
ただし、多くの場合は、動くことで防ぐことができます。
この病気について、今のところ航空会社は一切アナウンスしていません。
是非、改善してほしいものです。
| パリの夜に。
発症2時間前、とてもきれいな夕日でした。
夜9時頃でした。
始めは、肺の左側の一部分だけに違和感を覚えました。
何かに突かれているような感じです。
気のせいかと思っていたのですが、
時間とともにその間隔が短くなり、
無視できないほどの痛みになりました。
左手で思いきり肺を押さえつけましたが、
痛みはますますひどくなっていきます。
それから苦しくて苦しくて、何も考えられなくなりました。
覚えているのは、ただ苦しい。
ただ不思議なことに、自分が死ぬとは一切思いませんでした。
この時点では、疾患について、
知らなかったことが良かったのかもしれません。
そしてほとんど息ができなくなりました。
顔色は真っ白だったそうです。
エルベが電話をしてくれて、救急隊が駆けつけてくれました。
脈をとり、血圧をはかり始めました。
その間も呼吸ができませんでした。
そこへ通訳してくれたアランさんと京子さんが到着してくれました。
アランさんは映画プロデューサー、奥さんの京子さんは在仏30年。
当日は映画の完成試写会だったそうです。
救急隊から質問攻め。
「家族は?」
「この症状はいつからか?」
「パリにきたのはいつか?」
他にもいろいろ聞かれましたが、あとは覚えていません。
実際、呼吸困難だったのは20分程度でした。
僕としてはずっとずっと、そう2時間くらい経っている感じでした。
それから呼吸が戻ってきました。
そして、救急車へ。
実はそこは建物の8階。
ドクターから指示で、僕は椅子に座ったまま、
救急隊は椅子の両袖を持ち上げ運んでくれました。
申し訳なさと人名に携わる人はすごいなというで気持ちで一杯でした。
いまはダイエットしています。
それから病院へ搬送されます。
| 長い長い夜の始まり。
まず運ばれたのが、12区付近の拠点総合病院、
サン・アントワーヌ・ホスピタル。
ここでは二つの事実を知ることになります。
ひとつはフランスの病院について、
もうひとつは日本の保険会社についてです。
| フランスの病院
日付が変わり9日午前1:30、ひたすら待つ。
運が悪いことに、その日は金曜日。
そしてここはパリ。
私たちの常識では考えられない状況でした。
日本の病院は本当にすばらしいと思います。
TTPに参加しても構わないのですが、
現在のように、皆が良い医療を受けられるように、
努力してほしいと思います。
救急なのですぐ見てもらえると考えていたのが、
大きな勘違いでした。
待合室でベッドに横たわったまま3時間。
そこには10人くらいいたでしょうか。
その間、すごく酒臭い部屋で、
酔っ払いのおじさんがおしっこをもらしていました。
そう、ここはフランス。
|保険会社のこと。
そして、追い討ちをかけることが起こります。
成田空港で「損保ジャパン」の保険に入っていたので、
携帯電話で連絡をしました。
以前テレビコマーシャルで「まごころ」か何かといっていましたが、
うそを言うのは本当に止めてください。
電話での応対は、まったく事務的で心のない言葉ばかり。
ロンドンから電話してきた担当者は本当にひどくて、
こちらの状況をまったく把握しようともせず、
いきなり条件の話やらナニヤラでした。
本当にひどかったです。
彼女の対応があまりにひどいので、
結局は担当をかえてもらうことにしました。
そして、集中治療室に入院してから数日後、
現地の協力会社のスタッフが来てくれました。
彼女は元看護婦さんでフランス在住。
とても安心できました。
|続く長い夜、そして朝。
3時間後、ドクターに見てもらい、
そのままCT検査にいくことになりました。
再び待つこと、3時間。
時間は午前4時くらいだったと思います。
今度は検査室の前で、ずっと横になっていました。
その間もエドワードがずっとそばにいてくれました。
とても安心しました。
そのときは、全く知りませんでした。
起き上がると血栓が動いて死ぬかもしれないということは、
入院二日目に知ることになります。
二回もトイレに行ってしまいました。
結局この間、医師や看護婦は、
一度も様子を見に来ることはありませんでした。
日本とはだいぶ違うように思います。
検査が終わり、朝8時頃だったでしょうか。
心臓専門病院へ移ることが決まりました。
また3時間くらい待って、救急車に乗りました。
救急車を降りるとき、搬送代金を現金で支払いしました。
フランスなので、健康保険がなく、仕方のないことですが、
なんだか落ち込みました。
|動くな。
移動翌日10日昼頃の様子、集中治療室にいる間、つけっぱなし。
集中治療室に入院することになりました。
本当に危なかったと知ったいうのは、
入院して2日後のことでした。
エドワードの友人、ジャン=マリー・セルバン先生がきてくださり、
日本語で病気のことを教えてくれました。
そして、動くなと。
|フランス語はわかりません。
初日の病院食、いくらなんでもこれは不味すぎて食べられません。
この病院はまだ良いほうだという話でした。
フランスの現実とイメージのギャップが激しすぎます。
入院初日、部屋は二人。
ルームメイトも死にかけた一人。
日本の仲間に電話すると、
「生きてて良かったね」とのこと。
電話を枕元に置いておくので、
いつでも電話していいといってくれました。
本当に心強かった。
そして、トイレ問題。
ベッドの上でどうぞとのこと。
大きいのも小さいのも。
仕切りはありません。
看護婦も気にかける様子も無く、
結局、生まれて初めて便秘になりました。
シーツ交換のとき、
「サロンジェ(横たわる)」が分からず、
そのまま起きていると、
初老の看護婦は怒り出す始末。
実は片言の英語ができたのに、
なかなか単語が出てこなかった様子。
怒らないでください。
|再び激痛
心電図。日本製。ひと安心。
初日深夜、
腰が悪かったこともあり、
ずっと横になっていたので背中に激痛が走りました。
背中に針金を入れられているような痛み。
痛みで心拍数があがり、心電図が警告音を鳴らしていました。
ドラマや映画でよく聞く音です。
薬をのんでも効かず、
鎮静剤を点滴してくれました。
フランス語で質問されても、何もわからない。
あの日の夜のことは今でも忘れられません。
|勉強。
そんなことがあり、
エドワードに辞書を買ってきてもらいました。
とてつもなく暇なので、
一日8時間勉強していました。
帰国後、放送大学のフランス語入門IとIIの単位をとりました。
不思議なことに、2月の時点で申し込みしていました。
最近は少しだけ聞きとれるようになってきました。
|悪いことばかりでなく。
一般病棟に移りました。もう安心。
入院中、毎日、血を抜かれていました。
採決してくれる人が女優のようにきれいな人。
「レスピレー(呼吸して)」といわれた瞬間に、
ぷすっと注射を刺されていました。
実は注射が大嫌いなのです。
|今年1月。
命を救ってくれたエドワードとエルベは、
とても寒い大江戸骨董市で出会いました。
たまたまブースを見て興味を持ち、
それ以来、パリで部屋を貸してくれるということになりました。
|そして、もうひとつの話。
退院した日の病院。
一昨日のこと、
エルベが教えてくれました。
以前、同じ症状を発症した人がいました。
残念ながら彼は、エドワードとエルベの目の前で、
とても若くして亡くなっていました。
即死でした。
エルベは僕の症状を見て、同じことが起こっているとわかり、
そしてすぐに救急車を呼んでくれました。
そして、すぐ救急隊がかけつけて、
椅子に座ったまま動かなかったので、
血栓が肺でとまった。
今になり、数多くの偶然が重なっていたことに本当に驚かされます。
幸運でした。
| あれから7ヶ月。
最初に運ばれた病院。部屋から徒歩2分。
幸いにも元気です。
帰国してから血液検査を受けました。
残念ながら、僕の場合、血栓ができやすい血液だそう。
プロテインCという血液の物質が、一般の半分しかないらしいです。
本当はいつも少し怖いです。
再発すると生存確立が下がるそうです。
特にヨーロッパへのフライト中やフライト後は、
実際には何も無いのですが、
ときどき肺が痛くなるような錯覚があります。
あれは、本当に苦しかった。
|感謝。
こうして元気に仕事ができ、暮らせているのは、
僕のまわりにいてくれる、みんながいるからです。
そして起こったすべてのこと、すべての人に、
ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
経験者として、生き残った者として、
この疾患の予防について、少しでもお役に立てればうれしく思います。
相澤拓也
ブリュッセルにて。
1800年代頃・マヌカン